30年前の世界はどうだったの? その1

30年前の世界はどうだったの? その1

 こんにちは、会長です。今回はネタとして面白い記事がございましたのでそちらの訳を書いていこうと思います。題して、『30年前の世界はどうだったの?』です。原文は以下のリンクですので、写真等、まとめてみたい方はこの記事を参考にでもしながらどのような感じなのかをお楽しみください。なお、内容的にわかりにくい部分は私の独断で意訳等を行っているのでご了承ください。

 内容的にかなり長いので、2回ぐらいに分けて訳を書いていく予定ですので、よければ続編の方もご覧ください。

https://tengrinews.kz/story/30-jyil-buryin-alem-kanday-ed-456607/

『30年前、世界はどうなっていたのか?』

 今からちょうど30年前、カザフスタンは主権を勝ち取った。その当時、世界はどのようだったのか?カザフスタンではどんな変化が起こったのだろうか?Tengrinews.kzの記者が1991年の世界で何が起こっていたのかを書いた。

30年前、カザフスタンで何が起こった?

 1991年(の初め)、カザフスタンは旧ソ連の構成国である、カザフ・ソビエト社会主義共和国(大統領制)として存在していたが、ここで大統領を選出することとなった。その時、(ソ連邦内の国家としての)共和国元首を上院(カザフスタンでは2院制が敷かれている)が選出すると決定された。

 当時、カザフスタン共産党の第1書記であったヌルスルタン・ナザルバエフ氏は(ソ連邦内の)共和国大統領として選出された。12月1日のカザフスタン大統領選挙によって、ナザルバエフ氏は98.7%の得票率で当選した。そして、今日では12月1日をカザフスタン初代大統領の日としているのである。

 1991年8月29日『セメイ核実験場の閉鎖』が決議された。この核実験場は40年もの間(住民にはこの核実験場については知らされていなかったために健康被害が出ていたとされる)稼働していたとされる。

(ちなみに、その下の住民と見られる人々の掲げている横断幕には「『ネバダとセメイ』私たちの行進に加わってください、同志よ」という内容が書かれていたりします)

 30年前、カザフ人初めての宇宙飛行士Toqtar Äwbäkirov氏が宇宙へと飛び立った。彼は10日間宇宙に滞在し、地球へと帰還した。

 そして、1991年にはカザフスタン内で独立したチャンネルが開設された。すなわち”КТК” と “Таң” である。(詳しくはwikiか何かでご覧ください)これはカザフスタン国民によく知られたものとなった。

 1991年まで60年にわたってカザフ人はナウルーズ(イラン暦の元日でイランを中心に中央アジア、アゼルバイジャン等の広い地域で祝われる祭日)を祝うことができなかった。この年、『3月22日をナウルーズを実施する通告に関して』という決定がなされた。その当時祝日が設定されていなかったので、ナウルーズがカザフスタンにおいて祝日となるのは1992年からとなった。

 30年前、いくつかの地域に新しい名前が与えられた。グリエフ州と呼ばれた地域はアトゥラウ州に、グリエフ市がアトゥラウ市へと改名された。コクチェタウ州がククシェタウ州とカザフ語化された。そして、12月10日にカザフSSRはカザフスタン共和国へと改名された。

 1991年、カザフスタン国民は多くのものを配給券で購入していた。 “Вечерняя Астана” (訳すと『アスタナの夕べ』あたり?)という新聞によると当時、砂糖、タバコ、そしてワインといった製品と一緒に、委託販売された肉も配給制であったとされる。牛肉が11ルーブル20コペイカ、豚肉が6ルーブルであったという。

「1991年の人々の社会状態はすぐに低迷した。給料は通常通りには支払いがなされず、店から商品は全て消え、人々はパン、砂糖、油などを買うのに長い時間をかけていた。地図上での分配など人々にはまるで役に立たなかった。生産拠点は機能低下し始めた。液状油と食料(もしくは酒)を配給する店も開かれた。人々に支払われた賃金は食料を買うにも足らないものだった」−とアルマトゥ在住のZäwre Qayranbekovaさんは言う。

 いかがだったでしょうか。ここまででキリが良くなったので一旦切らせていただきます。次回はソ連の崩壊などについてのものが控えております。それでは、また次回。

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